NZ Wine Column
ニュージーランドワインコラム
第115回コラム(Feb/2012)
西オークランドの歴史
Text: 金澤睦実/Mutsumi Kanazawa
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- #ワイン歴史
今年の夏はあまり元気のない夏でした。その終盤を楽しむかのように、地元では様々なイベントがありました。その中で「ダリーズ・イン・ザ・バリー」という、聞いただけでも踊りだしそうなワインとダンスの祭りがあると聞き、行ってみました。写真でもお分かりのようにラムを丸ごとごろごと焼いているのが目に飛び込んできました。もとい、「嗅覚が胃袋を直激」、です。
ダリーズとは地中海のアドリア海沿岸に住んでいたダルマチアンの愛称で、クロアチア、ユーゴスラビア系の人たちのことです。現在も子孫が多く住む西オークランドで、民族の誇りと歴史、文化財保護のために時折こういった祭りを催しているようです。
イギリス系の人たちとはやや違う、太めのおじさん・おばさんが甲斐甲斐しく会場内を動き回り、やはり太めのKiwiや観光客が芝生に寝そべって地元のワインと音楽を楽しんでいました。前回のコラムでご紹介したコラソン・ワインズのコックス氏はもう既に出来上がっておいでの様子で、私たちを見ると、「グラス買ってきたら、後は面倒見るから、早くおいで」と言ってくれました(グラスを5ドルで購入し、それぞれのワイナリーのブースでグラスワインを購入する方式)。会場となった場所は毎週土曜日にファーマーズ・マーケットがたつところで、その時は買う人、売る人の役割が明確ですが、この日のお祭りは、参加者全員がワイン、食べ物、ダンスを楽しむふんわかした雰囲気の日曜日となっていました。(写真は、コラという民族舞踊)
オークランド市はよく他民族都市だということを聞きます。西オークランドはどちらかと言うと、それほど裕福でない民族の人たちが多く住んでいます。都心部からやや離れているため、まだ家や家賃が安いのがその理由かもしれません。歴史的にこの土地からワイン造り、故郷に錦を飾った人たちも多く住んでいる、とは以前ある本を読んだときからどんな人がいたのか、と興味を抱いていました。それは偶然本屋で目にした、『冒険者と先見のある者たち』(Chancers and Visionaries)という意味深なタイトルの本。ヘンダーソンを発端として始まった西オークランドのワイン造りの歴史を詳細に示し、テンポある、読み応えのある本でした。
とある日、図書館の掲示板にGround Breaker(開拓者)と言う言葉と等身大のワインの瓶でデザインされたポスター目に留まり、この西オークランドの歴史について講演があることを知りました。
会場となったのはコーバン・エステートにある歴史的な教会でした。席に腰をおろし、すぐ何の予習をしていなかったことが悔やまれました。と言うのは、この日の講演者は前述の本の著者キース・スチュワート氏だったからです。スチュワート氏は文章も話しもうまく、見聞の深さを誇示することなく、西オークランド歴史協会の面々が聞き入るほど歴史を新鮮な見方で解説してくれました。
スチュワート氏の著作には、ニュージーランド特有の巨樹カウリを題材にしたものがあります。カウリは昔からニュージーランドで主要貿易品として取引され、その頑丈さから船や家具などを作るために乱伐され、いまや保護樹木となっている木です。そもそもカウリ伐採により西オークランドが開拓された一因でもあり、その困難な労働につくために多くの移民が海を渡って来ました。特にクロアチア人は、本国からでの生活に見切りをつけ、新天地に夢と希望を持って渡ってきました。まさにスチュワートの著作のタイトルのごとく『冒険者と先見のある者たち』です。
ダルマチアンはオーストリア・ハンガリー帝国(後のクロアチア、スロベニアなど)での政治的弾圧から免れるためにおおむね1890-1930年に約8000名がニュージーランドに移り住みました。最初はカウリの樹液(コパル)採取などの重労働に従事していましが、移住地のノースランドでも英国系移民至上主義からで、西オークランド(ヘンダーソン周辺を含む)に南下して、葡萄作りを始めました。私からすると西欧人はイギリス人もクロアチア人も同じように思いがちですが、英語圏からの人間でないダルマチアンは様々な中傷や差別を受けたようです(そのひとつが「あまりにも働きすぎ」だから、という理由もあったとか。いかにもキィウィの言いそうな理由に、笑うにも笑えませんでした)。
そもそもイギリス系の移民が中心だったため、ビールが圧倒的人気を誇っていて、ワインのなんたるかを知らない人たちはワインは糖分を加えたポートワインが中心でしたが。しかも、当時の法律では「ワイン生産にはブドウの一部が含有されること」と言う驚くべき緩い制約しかなく、イギリス人以外のヨーロッパのワイン文化から来た人たちは、一番美味しいブドウの第一絞りは家族消費にするのが当然とされていたとのこと。そして、ワインとブドウジュースの区別のつかない消費者向けに、「第四絞り(#4 reset)」と呼ばれるブドウの搾りかすに砂糖と水を加えて「ワイン」を製造したとのこと。スチュワート氏は半分冗談だったのかもしれませんが、1960年代までのニュージーランドのワイン生産量は、ブドウ収穫率の4倍、と言われていたこともあるそうです。その頃のワインが世界中に出回ってなくてよかった、とほっとしてしまった。
本場ヨーロッパのワインの味を知る移民たちの登場と、その後の第二次世界大戦でヨーロッパに派遣されていたニュージーランドの兵士たちが帰還し、現地でやはり本場のワイン体験したことで、次第にニュージーランドワインも洗練されていきました。
ニュージーランドワインがこれほどまでのステータスを確立した現在想像しがたいですが、移民たちが19世紀後半から直面した困難に、飲酒からの事件に対する、過度の反応から、禁酒や節酒が唱えられ、1914年には当時の総理大臣がダルマチア人の造るワインは、人間の品性を低下させ、非道徳的で時には人を狂気に追いやる」とまで称したとも言われています。現在でもニュージーランドではその土地により、スーパーでのアルコール販売を許可していない地域があります(住民投票で決めます)。現在の酒類販売免許制度や禁酒(反アルコール運動)時代についてはまた別の機会に書いてみたいと思います。