NZ Wine Column
ニュージーランドワインコラム
第207回コラム(Apr/2020)
Winegrowers’ Hub - 世界を繋ぐニュージーランド
Text: 鈴木一平/Ippei Suzuki
著者紹介
鈴木一平
Ippei Suzuki
静岡県出身。大阪で主にバーテンダーとして様々な飲食業界でワインに関わったのち、ニュージーランドで栽培・醸造学を履修。卒業後はカリフォルニアのカーネロス、オーストラリアのタスマニア、山形、ホークス・ベイ、フランスのサンセールのワイナリーで経験を積む。現在はワイン・スクールの輸入販売チーム、また講師として、ニュージーランド・ワインの輸入及び普及に関わる。ワイナリー巡りをライフワークとし、訪れたワイナリーの数は世界のべ400以上にのぼる。
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「ニュージーランドはいまや、“日本ワイン”のつくり手達が、最も気軽に研修にいける国である」
これは単に、ニュージーランドに日本人醸造家がひときわ多くいることだけを意味しません(また、決して不法な就労を推奨するコラムでもありません)。無収入の善意の作業でさえ労働とみなし、作業を与えた側にも厳しい罰則が課される国もある中、ニュージーランドはいまだ幾分の寛容さを保ち、北半球のワイン生産者達を引き付けています。そんなニュージーランドの懐の深さが、昨今我が国でも定着しつつある“日本ワイン”の味わいへと、少なからずポジティブな影響を与えていることは、あまり知られていないニュージーランドワイン産業の側面のひとつです。
海外のワイナリーでは、様々な国からヴィンテージ・ワーカーを受け入れることが一般的です。とりわけ醸造学校卒のワインメーカーの卵や、ワイナリーの後継者候補などは皆、積極的に名のあるワイナリーにコンタクトを取って研鑽を積み、ワインづくりの視野を広げていくのが通例となっています。受け入れるワイナリー側もまた、ビザ等の面倒はあるものの、知らない産地の情報を仕入れたりもできるため、こうした交流に積極的です。実際に研修させてもらえるかどうかはさておき、ワインの世界は基本“オープン”。ニュージーランドでもご多分に漏れず、皆自らのワインづくりをあけすけに語り合います。北半球の産地との活発な交流が、ニュージーランドワイン大躍進の一助ともなったことは、もはや周知の事実でしょう。
自分が世界のワイナリーで経験を積ませてもらった頃は、このような日本人がまだ珍しかったためか、面白がって雇用してもらえましたが、今となっては旧石器時代さながらの、泥臭いやり方でした。カバー・レターを付けて履歴書を応募することに始まり、その国で該当のジョブポストを募集したが同等の条件で人が集まらなかった旨、私以外に適任者が見つからない旨などを雇用側に証明してもらい、短期の就労ビザを工面してもらう…等々。
しかし世界は大分前から、誰しもが情報を発信し、基本誰とでも直接やり取りができることが当たり前になっています。ですから、会ったこともない誰かが先に体験した経験談をネット上で検索し、先駆者の情報を共有することもできるでしょう。さらに現在は、これまで以上にレスポンスが早い5Gが浸透していく過程にあり、旅行すらせずに現地にいるような臨場感を味わうことも可能になっていくはずです。
とはいえやはり、他の誰でもない当人が、直接現地に赴き、話し、味わい、体験することはいまだ、何物にも代えがたい経験であることに変わりはありません。
冒頭でお話したとおり、日本のつくり手たちの多くが、それぞれの熱い思いを胸に、頻繁に、中には人知れず、ニュージーランドを訪れています。そのほんの一例として、身近な青年二人のケースをご紹介しましょう。
<出来正光さん(取材当時30歳)の場合>
現在東北でブドウ畑を借り、ブドウの管理しながらワインの試験醸造もし始めている出来さんは、これまでヴィンテージのほか、旅行も含めると4度もニュージーランドを訪れ、ほぼ全土を巡りました。それぞれ明確な目標を掲げて訪問先や滞在先を選定し、主にビオディナミやオーガニックの生産者を訪ねては自身の疑問をぶつけ、多くのことを学んだといいます。
中でも特に彼の心に焼き付いたシーンとして、マーティンボロ滞在中の体験を挙げてくれました。町中がワインづくり一色となり、作業が夜遅くまで続くシーズンの真っ最中。にも関わらず、皆ヘトヘトの体をおして、夜な夜な町の中心にある小さな繁華街に繰り出し、ワインメーカーや農家、そして観光客とが、何の垣根もなくグラスを傾けている - その情景を目の当たりにし、いつかこんな風に日本でもワインを楽しめればな、と感じたそうです。
ニュージーランドはある種のワイン新興国にも関わらず、このように農村部にはワインが生活の一部としてすでにあって、ワイン産業が特別な仕事といった意識もない。しかしながら、各々がニュージーランドのワインを育てているという自負を持っている。出来さんが肌で感じたニュージーランドにおけるワインとの距離感は、訪問後の彼のワイン感にも深く刻まれています。
<金原勇人さん(取材当時31歳)の場合>
金原さんは出来さんと同年代で、現在ワイナリーの責任者を務めています。先立って現地のワイナリーで働く日本人などにコンタクトを取ったりはしたものの、ヴィンテージ後半の南島の産地をアポイントなしでも精力的に回りました。
大きな目的の1つとして、ソーヴィニヨン・ブランの本場、ニュージーランドの現場を実際に見てみたかったという金原さん。自身が醸造する上で、試してはみたいが試せていないようなアプローチについても、規模が大きく、方向性が多様化しているニュージーランドではすでにトライしているものも多く、そのプロセスや結果を味わいながら学ぶことができました。気候が違う日本の地において、標準的なソーヴィニヨン・ブランのつくり方をトレースすることが、果たして正しいのだろうか…。長らく抱いていたその疑念の答えを見つけた彼は、安易に売れるスタイルに踏みとどまらず、自分が根差す土地にあったやり方を模索する決意を新たにしたそうです。
置かれた現実を許容し、こうあらねばならない、という概念で自分を縛らない。これまで悩み抜いた末に下してきた判断だって、どれも決して間違ってはいなかった。日本ワインだって、自分にだって、戦える場所はまだ残っている。ニュージーランドに渡ることで強く確信を得た彼の目は、ワイン生産者としての誇りに満ちています。
このように、あなたが時折手にする日本ワインにはすでに、キウィのスピリットが数パーセント吹き込まれています。そしておそらくは、日本人の精神だって、ニュージーランドワインへと目に見えないアクセントを与えている。
世界が近づき、異であることを認め合い、互いに切磋琢磨する。フランスの“エスプリ”とやらだけを有難がって模倣していた時代や、ワインのグローバリゼーションを嘆いていた時代など、もはやとうの昔に過ぎ去っているのです。